8/13/2011

下川貴久枝様の体験談5

活かされた命を活かす

下川さんは、サラにいらっしゃると「先生、今週はこれができるようになったんです!」「先生、ここの痛みが取れました!」と、必ず良い報告をくれましたよね。自分に言い聞かせているようにさえ見えて、そんな姿に学ばされました。 それでは最後になりましたが、現在の下川さんのお身体や、されているご活動、サラへのご感想などございましたら聞かせて頂けるでしょうか。


感動の再会から4年が経ち、今でもほぼ毎週、三船先生や山田先生の施術を受けていますが、今ではとても瀕死の交通事故に遭った人間とは誰もが思わないほど、奇跡の復活を遂げることが出来ました。 勿論、仕事も復職し、生かされた命を活かすべく、新しい仕事やボランティアにも挑戦中。生き生きした人生を過ごしています。


最近のサラの施術の中で特に効果的だと思ったものは、三船先生オリジナルの楽健を応用した足ふみマッサージと、タイ式ストレッチを応用したパッシブストレッチです。 ストレッチは自分でやるもの、という固定概念がありますが、パッシブ(受け身)で他の人にサポートしてもらいながら受けるストレッチはかなり効果的です。自分ではなかなか動かせない筋肉や関節を伸ばしたり曲げたりできるので、関節の可動範囲が格段に広がります。


私の場合、骨盤にチタン2枚とボルト12本がまだ入っているので、股関節の可動域に制限があるのです。この制限を実に少しずつ少しずつ緩めて伸ばすのに効果的な手法が、足ふみマッサージとパッシブストレッチです。 しかも、ウェストのくびれまで復活!という思いがけないおまけのプレゼントまで、頂いちゃいました!(笑)

8/10/2011

下川貴久枝様の体験談4

リハビリとサラ再び

本当に壮絶な経験をされていますね。その後、どのようにして再びサラに戻ってこられたのでしょうか


半年に及ぶ入院生活の末、無事退院をしたのですが、とても以前のような生活が出来るレベルには、程遠く、会社も休職中のまま。「一体、私はどうなってしまうの?仕事なんて出来るの?」と、新たな焦りと苛立ちの日々が始まりました。 車いすの使い方はかなり熟達し、エレベータなどでは、クルッと向きを変えピタッと脇に止めるワザも習得。見ていた主人が思わず「カッコいいなぁ!」と言うほどの腕前になったものの、これでは一生歩けるようになりません。


激しい焦燥感と強い戸惑いでいっぱいでした。 そんな時に10歳の義足の少女に出会いました。前向きで決して愚痴らない。ただひたすら黙々と歩く練習を続けている姿を見て、「まだ私にはちゃんと2本の足がついているじゃないの」と、恥ずかしくなりました。 一念発起で車いすから卒業し、松葉杖だけの生活を始めました。しかし、これは相当厳しいものでした。足の色々な関節が、ロボットのように固まってしまい、歩くのではなく、松葉杖につかまって、ただ移動させるだけ。足の代わりに、松葉杖を支える両手を使った4本足歩行。実際には、両手で歩いているのと一緒でした。 やがて、リハビリの先生から、歩行訓練の休止命令が出てしまいました。何と両手が腱鞘炎のような状態になっていたのです。そのため先生に手のマッサージに集中するように!と言われました。


そこで、いよいよ、サラの三船先生と感動の再会です!私の手を触った三船先生は思わず「酷い!両手が鶏の足みたいにゴリゴリ!」と唸っておられました。 両手をマッサージして頂いたのですが、足はとても触れる状態にないほど敏感で痛みが酷く、びわの葉温灸を軽~く当てて頂くのが精一杯。それでもカチカチの体には、嬉しい救世主の手でした。 本当に、丁寧に少しずつ少しずつ体をほぐし、リンパマッサージ、温灸、楽健、ストレッチを組み合わせて、固まった関節や腱、筋肉を緩めていって下さいました。

8/01/2011

下川貴久枝様の体験談3

瀕死の交通事故


赤裸々にご自分のお身体のことをお話しいただき、またサラのこともそんな風に言っていただいて本当にうれしく思います。さてそんな中突然下川さんの交通事故のニュースが飛び込んでまいりました。


はい。約5年前、感謝と幸福の日々に起こった、突然の思いもかけない交通事故でした。しかも旅先の徳島県鳴門市でのこと。正面衝突で、助手席に座っていた私は、骨盤の粉砕骨折、左膝骨折、肋骨6本8か所骨折、それが肺にささり血気胸、恥骨骨折、出血多量で意識不明の瀕死の状態。


5リットルの輸血で命を取り留めたものの、輸血の副作用で全身、白目まで真っ黄色の黄疸を併発。それが2か月寝たきり、半年の車いす、1年3カ月の過酷なリハビリ生活の始まりでした。 自分の意志では1ミリも足を動かせない自分に気づいた時、私は人生を半ば諦め、「もう、人生は終わった」と神様を恨みました。今までの幸せな日々の記憶が却って自分を苦しめることになるなんて、思いもよらない絶望感に襲われる毎日でした。


「もう、三船先生にも会えないんだ・・・」と。 8時間に及ぶ骨盤の修復手術と様々なリハビリのお陰で、ようやく起き上がれるようにりましたが、今でも骨盤には2枚のチタンと12本のボルトが入ったままです。 ひたすら東京に帰りたくて、過酷なトレーニングの末、車いすに乗れるようになり、80日間を過ごした徳島から飛行機と介護タクシーで川崎の関東労災病院へ転院。今度は、松葉杖との闘いが始まりました。

7/29/2011

下川貴久枝様の体験談2

■瀕死の交通事故


赤裸々にご自分のお身体のことをお話しいただき、またサラのこともそんな風に言っていただいて本当にうれしく思います。さてそんな中突然下川さんの交通事故のニュースが飛び込んでまいりました。


はい。約5年前、感謝と幸福の日々に起こった、突然の思いもかけない交通事故でした。しかも旅先の徳島県鳴門市でのこと。正面衝突で、助手席に座っていた私は、骨盤の粉砕骨折、左膝骨折、肋骨6本8か所骨折、それが肺にささり血気胸、恥骨骨折、出血多量で意識不明の瀕死の状態。


5リットルの輸血で命を取り留めたものの、輸血の副作用で全身、白目まで真っ黄色の黄疸を併発。それが2か月寝たきり、半年の車いす、1年3カ月の過酷なリハビリ生活の始まりでした。 自分の意志では1ミリも足を動かせない自分に気づいた時、私は人生を半ば諦め、「もう、人生は終わった」と神様を恨みました。今までの幸せな日々の記憶が却って自分を苦しめることになるなんて、思いもよらない絶望感に襲われる毎日でした。 「もう、三船先生にも会えないんだ・・・」と。


8時間に及ぶ骨盤の修復手術と様々なリハビリのお陰で、ようやく起き上がれるようにりましたが、今でも骨盤には2枚のチタンと12本のボルトが入ったままです。 ひたすら東京に帰りたくて、過酷なトレーニングの末、車いすに乗れるようになり、80日間を過ごした徳島から飛行機と介護タクシーで川崎の関東労災病院へ転院。今度は、松葉杖との闘いが始まりました。

7/28/2011

下川貴久枝様の体験談2

脊椎側湾症

お仕事もバリバリなさっておられて、お身体のハンディは、全く感じられないパワフルさでしたが、実はお身体を元気にされる為に、沢山の努力をされてこられたようですね。


私は、小学校3年の時に、新宿の三越デパートの階段から真っ逆さまに下まで転落しました。幸いランドセルのお陰で、かすり傷程度の軽傷だったのですが、その際に第2頸椎を傷めたらしいのです。 その後じわじわと悪化し、中学2年の時に『脊椎側湾症』と診断されました。


背中が左側に大きく湾曲し、左の背中はコブのように盛り上がり、疲労が溜まると背中にスティールの板を背負ったような辛さが何十年も続いていました。 「姿勢が悪い!気持ちがたるんでいるせいだ!」などと会社の上司から、パワハラもどきのお叱りを受け、悔しく悲しい思いを何度したことか。


そんな時に出会ったサラは、救世主との出会いのように、私の体も心も軽やかに変化させて下さるものでした。 「わ~、体が軽い!体が曲がる、動ける。普通の人は、こんなに楽だったのね!」と思わず実感!!本当に、感謝、感謝で、大企業の管理職の仕事もバリバリこなせるようになっていきました

7/27/2011

下川貴久枝様の体験談1

ソニーで活躍する発明家から瀕死の交通事故、そこからの奇跡の復活という激動の人生を歩まれている下川貴久枝さんにお話を伺いました。 貴重な体験談を連載で語っていただきます!



下川さんのプロフィール



慶應義塾大学大学院卒業後、ソニーに入社。女性エジソンと呼ばれる発明エンジニアとなり、デジカメの電子シャッター特許で「全国発明表彰」を受賞。「モノづくり」から「ヒトづくり」への新しい挑戦をなすべく、株式会社ダヴィンチ・ブレインズを起業。


技術経営コンサルタント、人材育成のキャリアコンサルタントとして活躍中。東洋大学理工学部非常勤講師も勤める。ボランティア活動として、大田区の小学校向け理科実験寺子屋も主催。






出会い― 本日はお忙しい中をありがとうございます。下川さんとは、もう10年以のお付き合いになりますが、その間沢山のことを学ばせていただきました。さっそくですが、サラとの出会いから、お話しいただけますか。



はい。今から10年ほど前の夏でした。主人が単身赴任で住んでいた久が原のアパートでたまたま目にしたサラのチラシに書かれていたキーワードが『びわの葉温灸』。「これだ!」と背筋がゾクッとするインスピレーションを感じて、すぐに電話で予約をしました。


これが、『サラ』と私の最初の出会いです。自分が必要とするものは、殆ど、直観的なインスピレーションで決める習慣を持つ私は、あの時も、全く迷わず導かれるままに、サラでリンパマッサージとびわの葉温灸を受け始めました。



それ以来、三船先生、樋水先生、山田先生、との長く親密なお付き合いが始まりました。当時、私は、脊椎側湾症のため、ひどい腰痛と背中の痛みに悩まされていました。それを少しずつほぐして下さったのが、サラでの施術でした。

7/12/2011

ヒーリングサロン サラ お客様の声







サラのファンでありスクールの生徒さんでもあるM.Uさんの投稿

をご紹介します。


大田区在住 50代 会社員 M.U様

私がサラを知ったきっかけは、ポストに入っていた一枚のチラシでした。


場所が我家(大田区久が原)に近く御嶽山なんだぁと思い、女性専科の文字も頭に残りました。


若い時から腰痛持ちの私は、今までにもいろんなところで…わざわざ青山までも…整体やマッサージのお世話になりましたが、結局長続きしませんでした。そんな私が何年もサラに通っているのはなぜ??


その理由はもちろん施術後の爽快感や回復の実感!


最初の30分はドーム型サウナでしっかり汗をかきます。一般的なサウナと異なり顔がドームの外なのでのぼせることもありません。施術中も希望すれば、ずっとホットパッドで温めながら足や手からゆっくりリンパを流して頂きます。


この頃たくさん本が出ている「身体を温めると病気が治る(病気にならない)」を正に実感しています。もう一つは費用対効果! すなわち「お得感」ですよね。


何より先生方がきちんと継続して研究学習し習得なさっている技術レベルの高さが、何年も通うことになった最大の理由でしょう。


話はがらりと変わりますが、今は若い女性も乳がんを発症しています。脇や横腹背中などは自分ではうまくリンパを流すことが出来ません。定期的に施術をして頂くことで、触診のような効果もあるのではないか?と思っています。
 



                   担当 ヒノミズ

6/30/2011

ヒーリングサロン サラ お客様の声



今日もお客さまからの投稿をご紹介します。



 大田区在住 70代 主婦 Y.M様






 サラさんに来るようになって一年半、まだ寒い冬でしたが春を過ぎる頃には私の身体も
すっかり元気になりました。
 人に会うのも外出も面倒で気持ちも落ち込んでいる日々の中、サラさんの日だけはいそいそと出かけ、最初は入れなかったサウナも気持ち良く汗をかけるようになりました。
オイルマッサージで身体がほぐれ、肌も潤い、もう至福の時です。その夜はぐっすり、地震も気づかず元気に朝を迎えます。
 長い人生の終わりに出会った私の贅沢、サラさんに感謝です。きっと若返ることでしょう。この幸せが続くことを願っております。
                      
   担当 ヒノミズ


6/28/2011

ヒーリングサロンサラ お客様の声



お客様の投稿をご紹介します。

大田区在住  40代 会社員 森の番人様

サラさんとのお付き合いも6年を超えました。すっかり私の生活の一部になっております。
毎回変わらぬ丁寧な施術に感謝しております。ありがとうございます。

仕事のストレスや更年期にさしかかった年齢のせいか、何となく体調が悪いという状況が続く中、
週末のマッサージが癒しの時間になっています。
足裏から足、背中とマッサージが進行しますが、背中から首筋の時にはうとうとと夢の中…
ということがしばしばです。

サラさんに通う前は、夕方になると足がだるくてむくんでいることが多かったのですが、
それもだいぶ改善しています。
他の用事が続き数週間行けない時は、ふくらはぎが結構痛かったり、リンパの滞りを
感じたりします。、
肩、背中の懲り、痛みもマッサージで楽になります。
これからも長いお付き合いをお願いしたいと思っておりますので、宜しくお願いいたします。 
                 
担当  ヤマダ

ヒーリングサロンサラ 置きゃ胡散

6/27/2011

ヒーリングサロン サラ お客様の声

サラさんとのお付き合いも6年を超えました。すっかり私の生活の一部になっております。毎回変わらぬ丁寧な施術に感謝しております。ありがとうございます。
仕事のストレスや更年期にさしかかった年齢のせいか、何となく体調が悪いという状況が続く中、週末のマッサージが癒しの時間になっています。
足裏から足、背中とマッサージが進行しますが、背中から首筋の時にはうとうとと夢の中…ということがしばしばです。
サラさんに通う前は、夕方になると足がだるくてむくんでいることが多かったのですが、それもだいぶ改善しています。他の用事が続き数週間行けない時は、ふくらはぎが結構痛いこともあり、リンパの滞りを感じることもあり、肩、背中の懲り、痛みもマッサージで楽になります。
これからも長いお付き合いをお願いしたいと思っておりますので、宜しくお願いいたします。                  北嶺町  森の番人(40代 会社員)
担当  ヤマダ

6/26/2011

ヒーリングサロン サラ お客様の声



今日もサロンのお客様からの投稿が届いておりますのでご紹介します。




 ブルママ様 ―(40代 主婦)
「フルボディーコースを受けて・・・」
今日初めてフルボディーコースを受けました。
とても気持ち良かったです。身体が軽くなったのを実感しました。
頭まですっきりして嬉しい限りです。   ― ブルママ ―(40代 主婦)




 担当 ウエハ

マッサージスクール 卒業生の言葉

今回もこの春卒業されたY.Fさんからのメッセージをアップさせていただきます。Y.Fさんのマッサージは、その性格のようにやさしく丁寧なマッサージです。


杉並区在住 50代 介護職 Y .F


マッサージにあまり興味を持っていないかった私が、なぜかマッサージを習いたいと思いました。

さまざまスクールを調べる中で、何種類もマッサージが勉強できるサラの体験授業に行ってみました。

そしてその場での即入学手続きをしました。

それは、先生や教室の雰囲気が、気に入ったからです。


はじめは、どうやって身体に触って良いか分からないし、なかなか覚えられませんでした。

でも何回も繰り返しやさしく教えて頂き、あっという間に1年が経ちました。


これからなにかに生かせていかれれば良いなと思っています。

マッサージスクール 卒業生の言葉



今回は、この春スクールを卒業されスキルアップコースに進まれたKyon2さんのメッセージを紹介します。Kyon2さんの手は、ふわひわで暖かくとっても気持ちが良いのです。

大田区在住 50代 保育士 Kyon2

体験レッスンをしていただいてから、2年越しで恋こがれ、
やっと通えるようにからは、無我夢中でやってきました。

仕事で疲れていても、スクールに来ると、マッサージを教えて頂きながらも、
自分が癒されて行くのを感じ、とても楽しく受講することができました。

自分が気持ちいい事は、人にもしてあげたいですね。

私のまわりには、頑張っている女性達がたくさんいます。
彼女達に少しでもこの気持ち良さを分け与えたいと思います。

6/24/2011

ヒーリングサロンサラお客様の声








御嶽山中山様

いつも丁寧に施術してもらいありがとうございます。

最初は近所にリフレクソロジーのお店があるなぁと通り過ぎる日々でしたが、たまたま会社の同僚が通っていて、その方の紹介でカレコレ4年5年?のお付き合いをさせてもらっていて、私にとっては癒しの時間になっています。 

仕事をしていたときは1日中パソコンに向き合っていたので、目の疲れ、肩腰痛と体がカチカチになっていました。そこで、こちらで施術をしてもらうと痛さを伴いますが、施術後のスーッとした軽さが明日への活力となっていました!

 4年の間に2回出産をしているので、妊娠中は通えていませんでしたが、現在は3歳の娘と6ヶ月の息子の育児に追われ、これまた1日中抱っこをしているので肩腰がガタガタボロボロです。

今は、旦那の休日に少し時間をもらいサラへきています。
サウナでデトックスをし、施術してもらう時間が何よりも私のご褒美で、爽快な気持ちで帰路につくことができます。 

そして、旦那&子どもたちに優しく接することができているのは、サラさんのおかげだと思っています! 
これからもどうぞ末長くよろしくお願いします。


担当セラピスト ヒノミズ

3/31/2011

今どきの若者

私は、リンパマッサージのサロンとスクールをやっていますが、毎日後かたづけをして、スクールがある都立大の駅を出るのが8時、家に着くのが9時近くになります。 ほとんどの日は、29歳の長男と17歳の三男で夕食を作ってくれます。6~7年アメリカ生活をして、日本に帰った長男は、母の老いを感じたのか、「お母さんぼくにできることがあれば何でも言って」と申し訳ないほどにやさしくなりました。 夕食が済むと私はたいがい眠くなります。自分のベットがあっても、小さい子のようですが、1人で寝るのが寂しくて、ちょっと横になるだけだからと言ってリビングのソファーに横になっては寝てしまいます。 気がつくと、ソファーベットが平らにされ、テレビとストーブと電気が消されています。長男か三男が、後始末をしてくれたのでしょう。 ある時めったに来ない次男が帰ってきてわたしの定位置を占領し、眠りに着いていました。ほとんど居眠り状態の私を、17歳の三男が自分の部屋につれていって、自分のベットに寝かせてくれました。夜中に目が覚めたわたしは、リビングで胸が熱くなる光景をみました。 次男の体に2枚毛布をかけ、そばで床に毛布にくるまって寝ている三男の姿です。母を寝かせ、兄に毛布をかけ、自分は床に丸まって寝ている息子の姿に「ありがとう」と思わず我が息子に頭を下げていました。

2/14/2011

Yさんのこと 10


Yさんとお別れして10年以上がたちます。


Yさんは、その死をもって私に「常に謙遜になることの大切さ」を教えてくれました。


私たちの仕事はお客様に喜んでいただく仕事ですが、それは決して一方的な物ではありません。


施術とは術を施すと書きます。でも施しているようで、施される事のなんと多いことでしょう。


元気の手助けをさせていただく仕事を与えられた事に感謝しています。Yさんとの出会いは、十数年経った今も鮮明で、セラピストとしての原点になっているのです。

2/13/2011

Yさんのこと 9

Yさんの死を知らされた時、私自身は、やっと死の淵を脱したところでした。

1日、2日、3日、私は病院で沈黙の時間を過ごしました。頭の中でYさんを施術した日々を 繰り返し回想し、私はどうすべきだったのかを、自分自身に問い続けました。

そして私なりに得た答えは、「私は初めから無力なものである。」と言うことでした。

天から与えられたであろう命とその人自身の自然治癒能力。それこそがほとんど全てであり、
私たちがお客様にできる事はほんの手助けにすぎない。100%の内のほんの数%にすぎないのだろう。

無力な自分自身を知ったとき、自分自身に命があることが心から感謝できました。

そして、Yさんの冥福を心から祈ることができたのです。

2/12/2011

Yさんのこと 8


1日中熱にうなされながら、まどろみのなかに、笑顔の夫や、子供たちが現れました。
広いひろいお花畑を自分が歩いている夢も見ました。

そんな中でなんども繰り返し夢にあらわれたのが、前のブログで書いた毎日サロンに来ていたお客様です。施術している場面や、お客様と話している夢を何度もみました。

入院して20日ほどたって、会社の人が見舞いに来た時も「Yさんどうしてる?」と開口一番聞きました。
「あの後Aさんが三船さんの代わりに何回か施術したよ。ある時Aさんが足をきれいにして丁寧にもんであげてね。その後 Yさんが亡くなったって家族の方から連絡があったの。」

20日前まで施術していたお客様が、私が生死の間をさまよっていたその頃、天国へと旅たって行かれました。

2/11/2011

Yさんのこと 7


手術から10日後主人が呼ばれ「峠を越した」事を医師に聞きました。

「峠だったんだ。」私たちは、越えてはじめて峠だったことを知らされました。
手術後、私は詳しい体の状態を聞かされぬまま食事もなく、点滴だけで高熱にうなされていたのです。
お腹のうみを1日何度も拭いてもらい、10日を過ごしました。

手術直後、「トイレにも行けないなんて、ただの盲腸なのに絶対おかしい。」と看病してくれていた私の妹だけが言っていました。

私などは、「1日6回も、7回も先生が見に来てくれるなんて、なんて親切な病院なんだろう」と思っていたくらい、自分の状態を把握していなかったのです。

2/09/2011

Yさんのこと 6

手術は30分と告げられていたそうですが、実際は、3時間半かかりました。

待っている主人は気が気でなかった様です。「何か悪い物が見つかったのではないかと思った」と後になって言っていました。

そこではじめて主人に告げられた事は、金曜日に入院してから、月曜日にレントゲンを撮るまでの間に盲腸がお腹の中で爆発していたことです。

お腹の中にばらまかれたウミを回収するのに時間がかかったようです。

腹膜炎も併発していました。40度の高熱が1週間以上続き、シュークリームのようなウミがお腹の上にあふれました。

手術後もお腹に管が2週間つながれていました。

お腹のうみを吸い出す為なのですが、それでもお腹の上は、いつもうみがあふれ,1日何度も拭いてもらいました。

2/07/2011

Yさんのこと 5


土曜、日曜それまでの人生で味わった事のない痛み(お産を4回経験した私でさえ)を耐えました。

月曜日をむかえた時、「もう一度レントゲンを撮ります。」と車いすでレントゲン室につれていかれた私は、「降りて下さい。」と言われ、痛みで車いすから、転げ落ちてしまいました。

新しいレントゲン写真を見て、医師はうろたえました。「すぐ手術をします。」
「まだ主人に言ってないんですけど。」私は、急に動きだした診察室の空気にわけもわからず不安を感じました。

「ご主人にはこちらから連絡します。すぐに手術室に入ります。手術着に着替えさせられた私は、あっと言う間に、たくさんのスポットライトを浴びて、スターのように横たわっていました。舞台の上ではなく手術台の上に。

薄い手術着1枚なのに、ガンガンに冷房が効いた部屋でした。わたしは、手術よりそちらがたえられず、「すいません、寒いんですけど何とかなりませんか?」と言ったのを覚えています。

手術は部分麻酔でしたので、その時間に行われた事を興味深く観察することができました

麻酔で痛みも無くなり、肩に毛布もかけてもらっていたので、けっこう快適でテレビのワンシーンをみているようでした。
2人の医師がいたのですが、最後に副院長である1人の医師が「土、日に開けていればなあ」とつぶやく声が気になりましたが何の事かわたしには、意味がわかりませんでした。

2/06/2011

Yさんのこと 4


病院でレントゲンを取る時、私は痛さのあまり体をまっすぐに伸ばす事ができませんでした。

医師の診断は、「虫垂炎」一般に「盲腸」といわれるものでした。抗生剤で炎症をちらす事になりました。

病院に入った日が金曜日、それから土曜、日曜が入った事が、「単なる盲腸」を「ややこしい虫垂炎」にしてしまったようです。

土曜、日曜痛みは増すばかり、痛み止めを打ってもらっても、気絶するほどの痛み。看護師さんに訴えると、「さっき痛み止めを打ったでしょう土、日は先生いませんから。」と言われ「自分はそんなに忍耐力がない人間なのだろうか」と自己嫌悪におちいりました。

2/05/2011

Yさんのこと 3


プロのセラピストとしてのスタートは、サロンの店長としてのスタートでした。

私は1人で店を任され、責任感からくたくたでしたが喜びがあふれていました。

そんなある日、夜中に突然の腹痛。その痛みは、耐えがたく、今まで経験したことのないものでした。

朝をやっとの思いでむかえた私は、自分で救急車を呼びました。
救急車の中で、「店を休む訳には行かない、すぐに痛みは取れるだろうか?」とお客さんのことばかりを考えていました。

2/04/2011

Yさんのこと2


全身の70%を低温やけどしたYさんがおいでになったのは、
プロとして仕事を始めるようになって1年位たった頃でした。

まだ幼かった私は、「私しか彼を助けられる人はいない」と責任を感じ、
連日数時間の施術をつづけました。

はじめての慣れない店長業と、仕事に対する責任感で、私はくたくたでした。

更に週2回リフレクソロジーの学校にも通っていました。

たった1人でサロンを切り盛りしながら「明日私が倒れたら、誰がお客さんを見てくれるのだろう。」
と思うようになりました。

2/01/2011

Yさんのこと1


私は、今リンパマッサージのスクールとサロンを主催しているのですが、はじめてのサロンワークは、ビワ葉温灸師としての仕事でした。

まだ新米だった頃の話です。ある日全身の70%も低温やけどをした方がみえました。酔っぱらって帰宅し、シャワーを浴びながら寝てしまい、数時間シャワーを浴び続け気がついた時は、病院のベッドの上だったそうです。

生きる事も難しい状態から、やけどから免れた背中のわずかな皮膚を培養し続け全身に移植されました。お会いした時、全身がつぎあてのようにつなげられた皮膚でおおわれていました。

病院の治療が終わっても「汗がでない、体温調節ができない、高熱が出る」など不安定な体調で苦しんでおられました。

少しでも楽になればと、全身のビワ葉温灸、足裏リフレクソロジーを施したところ、とても調子が良いと、毎日来て下さる様になりました。
自力で汗を出せるようになり、体温をコントロールできるようになっていったのです。次回に続く

1/26/2011

今時の若者

毎朝通勤で使う駅は、東横線の多摩川駅です。

多摩川まで自転車で5~6分、歩けない距離ではないのですが、帰りが遅くなると、
うっそうと木々の茂る静かな場所なので、歩きは、ちょっとこわいのです。

多摩川の月決め駐輪場を利用しているのですが、去年の夏ちょっといい話がありました。
駐輪場は、春から数ヶ月間拡張のためずっと工事中でした。

その間駅裏の臨時駐輪場を使うことになっていたのですが、これがなんとも使いずらい場所でした。

山肌を崩して作っていたので、微妙に傾斜しているので、風の吹く日はもちろん、ちょっとした事で
ばたばたとドミノ状態になるのです。

私はできるだけ、一番奥の高い場所に止めて、他の自転車に倒されないよう気をつけました。

その日は、5月のけっこう暑い日でした。家を出るのが、いつもより15分ほど遅くなったので、
ちょっとした不安感があったのですが、案の定駐輪場は自転車でいっぱい。
かろうじて中腹のやや傾斜のきつい場所が空いていました。

出発が遅れ、やや気持ちがあせっていた事も手伝って、慎重に入れたつもりが
我が自転車のハンドルが、となりの自転車のハンドルをかすり、一瞬にして、
5~6メートルさきまでドミノ倒しになりました。

「大変...」となりの1台目を起こそうとしたその時です。
後ろからの声「心配しなくとも大丈夫ですよ。ぼくらが全部直しますから。」

振り返ると頭を丸めたガタイの良い高校生2人」。
「すみません、ありがとう。」私がお礼をいう時には、
私の手から、からまって倒れている自転車を取り上げ、さっさと起こしていました。

あっと言う間に2人は、おそらく私1人なら30分はかかるだろう
と思われる自転車たちをものの5分くらいで起こし
「じゃ、気をつけて」とにっこり笑い、駅の中に吸い込まれていきました。 

2人が、我が息子と同じ高校の制服を着ていたことが、
2人の印象を更にアップさせました。今時の若者もすてたものではありません。