2/14/2011

Yさんのこと 10


Yさんとお別れして10年以上がたちます。


Yさんは、その死をもって私に「常に謙遜になることの大切さ」を教えてくれました。


私たちの仕事はお客様に喜んでいただく仕事ですが、それは決して一方的な物ではありません。


施術とは術を施すと書きます。でも施しているようで、施される事のなんと多いことでしょう。


元気の手助けをさせていただく仕事を与えられた事に感謝しています。Yさんとの出会いは、十数年経った今も鮮明で、セラピストとしての原点になっているのです。

2/13/2011

Yさんのこと 9

Yさんの死を知らされた時、私自身は、やっと死の淵を脱したところでした。

1日、2日、3日、私は病院で沈黙の時間を過ごしました。頭の中でYさんを施術した日々を 繰り返し回想し、私はどうすべきだったのかを、自分自身に問い続けました。

そして私なりに得た答えは、「私は初めから無力なものである。」と言うことでした。

天から与えられたであろう命とその人自身の自然治癒能力。それこそがほとんど全てであり、
私たちがお客様にできる事はほんの手助けにすぎない。100%の内のほんの数%にすぎないのだろう。

無力な自分自身を知ったとき、自分自身に命があることが心から感謝できました。

そして、Yさんの冥福を心から祈ることができたのです。

2/12/2011

Yさんのこと 8


1日中熱にうなされながら、まどろみのなかに、笑顔の夫や、子供たちが現れました。
広いひろいお花畑を自分が歩いている夢も見ました。

そんな中でなんども繰り返し夢にあらわれたのが、前のブログで書いた毎日サロンに来ていたお客様です。施術している場面や、お客様と話している夢を何度もみました。

入院して20日ほどたって、会社の人が見舞いに来た時も「Yさんどうしてる?」と開口一番聞きました。
「あの後Aさんが三船さんの代わりに何回か施術したよ。ある時Aさんが足をきれいにして丁寧にもんであげてね。その後 Yさんが亡くなったって家族の方から連絡があったの。」

20日前まで施術していたお客様が、私が生死の間をさまよっていたその頃、天国へと旅たって行かれました。

2/11/2011

Yさんのこと 7


手術から10日後主人が呼ばれ「峠を越した」事を医師に聞きました。

「峠だったんだ。」私たちは、越えてはじめて峠だったことを知らされました。
手術後、私は詳しい体の状態を聞かされぬまま食事もなく、点滴だけで高熱にうなされていたのです。
お腹のうみを1日何度も拭いてもらい、10日を過ごしました。

手術直後、「トイレにも行けないなんて、ただの盲腸なのに絶対おかしい。」と看病してくれていた私の妹だけが言っていました。

私などは、「1日6回も、7回も先生が見に来てくれるなんて、なんて親切な病院なんだろう」と思っていたくらい、自分の状態を把握していなかったのです。

2/09/2011

Yさんのこと 6

手術は30分と告げられていたそうですが、実際は、3時間半かかりました。

待っている主人は気が気でなかった様です。「何か悪い物が見つかったのではないかと思った」と後になって言っていました。

そこではじめて主人に告げられた事は、金曜日に入院してから、月曜日にレントゲンを撮るまでの間に盲腸がお腹の中で爆発していたことです。

お腹の中にばらまかれたウミを回収するのに時間がかかったようです。

腹膜炎も併発していました。40度の高熱が1週間以上続き、シュークリームのようなウミがお腹の上にあふれました。

手術後もお腹に管が2週間つながれていました。

お腹のうみを吸い出す為なのですが、それでもお腹の上は、いつもうみがあふれ,1日何度も拭いてもらいました。

2/07/2011

Yさんのこと 5


土曜、日曜それまでの人生で味わった事のない痛み(お産を4回経験した私でさえ)を耐えました。

月曜日をむかえた時、「もう一度レントゲンを撮ります。」と車いすでレントゲン室につれていかれた私は、「降りて下さい。」と言われ、痛みで車いすから、転げ落ちてしまいました。

新しいレントゲン写真を見て、医師はうろたえました。「すぐ手術をします。」
「まだ主人に言ってないんですけど。」私は、急に動きだした診察室の空気にわけもわからず不安を感じました。

「ご主人にはこちらから連絡します。すぐに手術室に入ります。手術着に着替えさせられた私は、あっと言う間に、たくさんのスポットライトを浴びて、スターのように横たわっていました。舞台の上ではなく手術台の上に。

薄い手術着1枚なのに、ガンガンに冷房が効いた部屋でした。わたしは、手術よりそちらがたえられず、「すいません、寒いんですけど何とかなりませんか?」と言ったのを覚えています。

手術は部分麻酔でしたので、その時間に行われた事を興味深く観察することができました

麻酔で痛みも無くなり、肩に毛布もかけてもらっていたので、けっこう快適でテレビのワンシーンをみているようでした。
2人の医師がいたのですが、最後に副院長である1人の医師が「土、日に開けていればなあ」とつぶやく声が気になりましたが何の事かわたしには、意味がわかりませんでした。

2/06/2011

Yさんのこと 4


病院でレントゲンを取る時、私は痛さのあまり体をまっすぐに伸ばす事ができませんでした。

医師の診断は、「虫垂炎」一般に「盲腸」といわれるものでした。抗生剤で炎症をちらす事になりました。

病院に入った日が金曜日、それから土曜、日曜が入った事が、「単なる盲腸」を「ややこしい虫垂炎」にしてしまったようです。

土曜、日曜痛みは増すばかり、痛み止めを打ってもらっても、気絶するほどの痛み。看護師さんに訴えると、「さっき痛み止めを打ったでしょう土、日は先生いませんから。」と言われ「自分はそんなに忍耐力がない人間なのだろうか」と自己嫌悪におちいりました。

2/05/2011

Yさんのこと 3


プロのセラピストとしてのスタートは、サロンの店長としてのスタートでした。

私は1人で店を任され、責任感からくたくたでしたが喜びがあふれていました。

そんなある日、夜中に突然の腹痛。その痛みは、耐えがたく、今まで経験したことのないものでした。

朝をやっとの思いでむかえた私は、自分で救急車を呼びました。
救急車の中で、「店を休む訳には行かない、すぐに痛みは取れるだろうか?」とお客さんのことばかりを考えていました。

2/04/2011

Yさんのこと2


全身の70%を低温やけどしたYさんがおいでになったのは、
プロとして仕事を始めるようになって1年位たった頃でした。

まだ幼かった私は、「私しか彼を助けられる人はいない」と責任を感じ、
連日数時間の施術をつづけました。

はじめての慣れない店長業と、仕事に対する責任感で、私はくたくたでした。

更に週2回リフレクソロジーの学校にも通っていました。

たった1人でサロンを切り盛りしながら「明日私が倒れたら、誰がお客さんを見てくれるのだろう。」
と思うようになりました。

2/01/2011

Yさんのこと1


私は、今リンパマッサージのスクールとサロンを主催しているのですが、はじめてのサロンワークは、ビワ葉温灸師としての仕事でした。

まだ新米だった頃の話です。ある日全身の70%も低温やけどをした方がみえました。酔っぱらって帰宅し、シャワーを浴びながら寝てしまい、数時間シャワーを浴び続け気がついた時は、病院のベッドの上だったそうです。

生きる事も難しい状態から、やけどから免れた背中のわずかな皮膚を培養し続け全身に移植されました。お会いした時、全身がつぎあてのようにつなげられた皮膚でおおわれていました。

病院の治療が終わっても「汗がでない、体温調節ができない、高熱が出る」など不安定な体調で苦しんでおられました。

少しでも楽になればと、全身のビワ葉温灸、足裏リフレクソロジーを施したところ、とても調子が良いと、毎日来て下さる様になりました。
自力で汗を出せるようになり、体温をコントロールできるようになっていったのです。次回に続く