8/13/2011

下川貴久枝様の体験談5

活かされた命を活かす

下川さんは、サラにいらっしゃると「先生、今週はこれができるようになったんです!」「先生、ここの痛みが取れました!」と、必ず良い報告をくれましたよね。自分に言い聞かせているようにさえ見えて、そんな姿に学ばされました。 それでは最後になりましたが、現在の下川さんのお身体や、されているご活動、サラへのご感想などございましたら聞かせて頂けるでしょうか。


感動の再会から4年が経ち、今でもほぼ毎週、三船先生や山田先生の施術を受けていますが、今ではとても瀕死の交通事故に遭った人間とは誰もが思わないほど、奇跡の復活を遂げることが出来ました。 勿論、仕事も復職し、生かされた命を活かすべく、新しい仕事やボランティアにも挑戦中。生き生きした人生を過ごしています。


最近のサラの施術の中で特に効果的だと思ったものは、三船先生オリジナルの楽健を応用した足ふみマッサージと、タイ式ストレッチを応用したパッシブストレッチです。 ストレッチは自分でやるもの、という固定概念がありますが、パッシブ(受け身)で他の人にサポートしてもらいながら受けるストレッチはかなり効果的です。自分ではなかなか動かせない筋肉や関節を伸ばしたり曲げたりできるので、関節の可動範囲が格段に広がります。


私の場合、骨盤にチタン2枚とボルト12本がまだ入っているので、股関節の可動域に制限があるのです。この制限を実に少しずつ少しずつ緩めて伸ばすのに効果的な手法が、足ふみマッサージとパッシブストレッチです。 しかも、ウェストのくびれまで復活!という思いがけないおまけのプレゼントまで、頂いちゃいました!(笑)

8/10/2011

下川貴久枝様の体験談4

リハビリとサラ再び

本当に壮絶な経験をされていますね。その後、どのようにして再びサラに戻ってこられたのでしょうか


半年に及ぶ入院生活の末、無事退院をしたのですが、とても以前のような生活が出来るレベルには、程遠く、会社も休職中のまま。「一体、私はどうなってしまうの?仕事なんて出来るの?」と、新たな焦りと苛立ちの日々が始まりました。 車いすの使い方はかなり熟達し、エレベータなどでは、クルッと向きを変えピタッと脇に止めるワザも習得。見ていた主人が思わず「カッコいいなぁ!」と言うほどの腕前になったものの、これでは一生歩けるようになりません。


激しい焦燥感と強い戸惑いでいっぱいでした。 そんな時に10歳の義足の少女に出会いました。前向きで決して愚痴らない。ただひたすら黙々と歩く練習を続けている姿を見て、「まだ私にはちゃんと2本の足がついているじゃないの」と、恥ずかしくなりました。 一念発起で車いすから卒業し、松葉杖だけの生活を始めました。しかし、これは相当厳しいものでした。足の色々な関節が、ロボットのように固まってしまい、歩くのではなく、松葉杖につかまって、ただ移動させるだけ。足の代わりに、松葉杖を支える両手を使った4本足歩行。実際には、両手で歩いているのと一緒でした。 やがて、リハビリの先生から、歩行訓練の休止命令が出てしまいました。何と両手が腱鞘炎のような状態になっていたのです。そのため先生に手のマッサージに集中するように!と言われました。


そこで、いよいよ、サラの三船先生と感動の再会です!私の手を触った三船先生は思わず「酷い!両手が鶏の足みたいにゴリゴリ!」と唸っておられました。 両手をマッサージして頂いたのですが、足はとても触れる状態にないほど敏感で痛みが酷く、びわの葉温灸を軽~く当てて頂くのが精一杯。それでもカチカチの体には、嬉しい救世主の手でした。 本当に、丁寧に少しずつ少しずつ体をほぐし、リンパマッサージ、温灸、楽健、ストレッチを組み合わせて、固まった関節や腱、筋肉を緩めていって下さいました。

8/01/2011

下川貴久枝様の体験談3

瀕死の交通事故


赤裸々にご自分のお身体のことをお話しいただき、またサラのこともそんな風に言っていただいて本当にうれしく思います。さてそんな中突然下川さんの交通事故のニュースが飛び込んでまいりました。


はい。約5年前、感謝と幸福の日々に起こった、突然の思いもかけない交通事故でした。しかも旅先の徳島県鳴門市でのこと。正面衝突で、助手席に座っていた私は、骨盤の粉砕骨折、左膝骨折、肋骨6本8か所骨折、それが肺にささり血気胸、恥骨骨折、出血多量で意識不明の瀕死の状態。


5リットルの輸血で命を取り留めたものの、輸血の副作用で全身、白目まで真っ黄色の黄疸を併発。それが2か月寝たきり、半年の車いす、1年3カ月の過酷なリハビリ生活の始まりでした。 自分の意志では1ミリも足を動かせない自分に気づいた時、私は人生を半ば諦め、「もう、人生は終わった」と神様を恨みました。今までの幸せな日々の記憶が却って自分を苦しめることになるなんて、思いもよらない絶望感に襲われる毎日でした。


「もう、三船先生にも会えないんだ・・・」と。 8時間に及ぶ骨盤の修復手術と様々なリハビリのお陰で、ようやく起き上がれるようにりましたが、今でも骨盤には2枚のチタンと12本のボルトが入ったままです。 ひたすら東京に帰りたくて、過酷なトレーニングの末、車いすに乗れるようになり、80日間を過ごした徳島から飛行機と介護タクシーで川崎の関東労災病院へ転院。今度は、松葉杖との闘いが始まりました。